この本の著者である父野村英一は、文化財保護委員会発足に携わり、以来50余年福井県文化財保護審査会委員として文化財の保護や文化財保護の啓蒙活動に携わってきた。特に生涯の研究テーマとしていた若狭、越前の仏教美術に関しては、調査した仏像も壱千躰以上にのぼる。その一部は1952年からの福井県教育委員会『文化財調査報告』で年次ごと報告されているが、あらためて大系だてて報告する予定であった。しかし2002年11月に残念ながら他界。遺稿となった原稿は亡くなる直前に渡されたものだが、若狭、越前の菩薩像を中心とした貴重な仏像についての研究の一部であり、この出版は福井の文化財保護に十分役立つものと考えている。
"若狭地方には優れた仏像が多い。それも名の聞した寺院に在るのみというのではなく、浦部の名もない草庵や、山間の小堂にもあるというように至るところに散在しているのである。
この様にすぐれたものが多いのは、この地が京都や奈良に近いために、都の洗練された作風を、多分受けているからであろうと思っていたが、若狭の仏像をよく調べてみると、一部を除いては、みんな土のにおいのするローカル色豊かな地方作像ばかりである。
これらローカル色豊かなこの若狭の仏像には、誰がみても若狭風と言ってよさそうな物を感じ取ることができる。
しかし一口に若狭風といっても、例えば小浜市羽賀寺の千手観音像や、妙楽寺の聖観音像のように、北九州や山陰とそれぞれ深い関係があるものがあるように、手法的にも,表現上にも、他の地域の影響を受けたものなど、いろいろであって一様でなく、これが若狭様式だと明確にいえるものを見出すことは困難である。
それは日本人がいろいろな種族人種の混血によって出来ているといわれているように、若狭の仏像は、この地と生活交渉のあったいろいろな地域の影響を受けているからであろう。
私が若狭の仏像に心を惹かれ、長年訪ね歩いているのも、実はこの若狭風なるものを、少しでも解明したいと思うからである。調べば調べる程、いろいろな事実が新たに見出され、全く尽きるところがなく、ともすると自分にとっては、生涯かけた仕事になるかもしれないと思っている。”若狭風の仏像のうち、羽賀寺の本尊十一面観音像と多田ヶ岳の北麓にある多田寺の薬師三尊像は、種々の意味において、若狭風の代表作であるといってよい。北川を渡って行く羽賀寺は、寺伝によると霊亀二年(七一六年)行基の開創にかかる寺で元正天皇の勅願寺であった。この寺の本尊十一面観音像は、つとに北陸随一の美人でおわすと識者の間にも謂われ、聞こえている尊像であるが、像容は陽春の自然のようで誠に靉靆としており、世間苦に疲れ、もはや人の真心さえも素直に感受できないほどに疲れた人も、このみ仏に詣でては、そのあいたいとした像容に心がうたれ、茫洋たる御心にいだかれて、生きる力が与えられるかのようでる。尊像としても誠に名作の名に恥じないものである。この像はよくみると、一木彫成の手法によるもので、像高は一四六糎、垂れ下げている観音の右手は維摩相(ゆいまそう)といって、通常少し長めにつくられるものであるが、この像の手は膝の下までも達する程で非常に長く、それが官能的な美しさをもつ長身の像容とよく調和し、そこに少しも奇異な感じを与えないばかりか、その常識を超えた長い表出は、目尻の線を越して更に長く引かれているなど、この像はどこをみても全く超人的なお姿に表現がなされていて、像容のデフォルメについて心が用いられている点は、現代美術をみるような新さを感ずるものである。この像のように信仰と芸術が、これほど高い次元於て、一つの像に統一され具現化されているものも、そうざらにはあるものではなく、地方作像といえば、どうかすると単なる田舎作のように解され易いが、若狭のものは、そのような考えは改めなければならないことを、この像は短的にお教えているといってよい。今もあざやかな繧繝文をはじめ像顕当初の彩色を美しく残していることも貴重である。
この寺の本堂は梁間六間、桁行き五間、単層入母屋造り桧皮葺の建物で、文安四年(1447年)に、奥州び安部泰孝が建てた所謂室町建築であるが、木割が比較的太く、丈夫な板蟇股が用いられているなど、建物には不必要な装飾的手法が避けられていて、全般に質実な手法がとられている。堅実な東北の気風が伺える建物である。その本堂に安置してある千手観音像は、胎内の墨書銘によると、長寛三年(1165年)に、肥前の国の仏師謙勝なるものが造っている。像高は、135.4糎、寄木内刳りの像で、若狭風には造られているが、銘文はこの仏像が北九州と深い関係があったことを示しているわけで、東北の色濃い本堂に安置されていることは、誠に不思議なとりあわせである。これらは文化に交流を知る上の資料として貴重であることは云うまでもない。この像の脇にある毘沙門天像も、胎内に墨書銘があって、それによるとこの像は治承二年(1178年)に造られている。治承といえば、詩歌に己が生命を見出していた多感な王朝の人達にも最早一つの歌さえ詠まぬ程に、時代は既に耐え難きものになっていた時であるが、この像はそのような時代に造られたのでる。像高百五十九・一糎、一木造りの古式により造られた等身大のこの像は、天部らしく甲冑に身をかためているが、彫成は素朴なお顔のもとに、姿態をのどかに表現し、像容にどことなく粗放な感じをただよわせている。鑿先に全神経を集中し、恰もなでるようにして静かにすきあげたあの藤原の仏像と、変わりがないような鑿つかいがなされ、一見藤原様の像のようにみえるが、やはり時代の推移は争えぬもので、その刀法は乱れていて外見はともかくも静止的な藤原の刀法とは、かなり違いが感じられる像である。鎌倉への先駆的像といった方がよいようせある"
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